追悼 水野晴夫さん(昭和42年卒)

何人かの方より水野先輩の思い出を寄せいていただきましたので、まとめて紹介いたします(受領順)。 追記、修正ありました吹田まで連絡ください。2022/01/30
ありし日の水野先輩の写真を青木先輩より頂きました。2022/02/26
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左から池田隆弘氏(S44卒), 吉田良造氏(S42卒), 水野晴夫氏。

■ 浜田 愃さん
 水野さんは私が1年生の時の4年生で短距離のチーフでした。100mから400mまで一緒に苦しい練習をした思い出深い先輩でした。
とりわけ私が1年生の時(昭和41年/1966年)の東大戦の最後の800mリレー(当時)で私が2走、水野さんがアンカーを走られ、強い東大の青木選手( 100m 10秒9の記録を持ち、翌年の関東IC 100mの優勝者)の追走を振り切ってテープを切り、最終種目で勝ち、何十年ぶりかの優勝を飾った瞬間は今でも鮮烈に記憶しています。

この東大戦勝利で、当時のOB会の発案で沖縄遠征が決定した経緯があります。企業法務にも明るく、私が弁護士になってからも時々アドバイスを仰いだこともあります。物静かな紳士で当時の田島コーチの秘蔵っ子でした。誠に残念です。合掌。

管理人(吹田)追記:この時の東大戦勝利は都留先生の回顧記事にも記述があり、抜粋します。『1952年以来惨敗を続けていた対東大戦に、一橋大学が66年に、一点差で凱歌を奏したのだった。勝を決めたのは最終種目の800mmリレーだったが、アンカーの水野晴夫君が東京オリンピックのヘイズもどきにバトンを空高く投げたとき、私のとなりに立っておられた田島さんは、拳を握りしめて喜びを表現された』。
この記事全体は当HP、歴代記録・都留杯・部誌のページ、『一橋大学陸上競技部長として十三年 (都留先生自伝より)「世界」(岩波書店)2001年7月号より転載』にあります。


■ 岩瀬 浩一さん
 千葉会長時代に幹事長、青木会長時代に副会長を長く務め、70年史作成にあたっても中心になって活動されるなど倶楽部運営に多大な貢献をされました。

■ 後藤 哲也さん
 水野さんの訃報に接し驚いております。
100周年記念史で私が原稿担当の「旧グランド四方山話」コーナーのネタの一つとして、春になったら水野さんに連絡取ってお話を伺おうと思っていたところです。
そのネタは大雨のグランドでの対校戦リレーでバトンを落としたチームが、水に浮かんだバトンが風でコース外へ流され失格になったという話。学生時代に耳にしたことあり、真偽の程とそれが一橋グランドか、水野さんご存じならお聞きしようと。

水野さんで思い出すことを二つばかり記して、故人を偲びたいと思います。
・走る際に太ももの内側同士が擦れて困る、と話されていました。
 短距離選手は太腿がそんなに発達しているんだ!と思った記憶があります。
・浜田さんも触れてます東大戦の1週間前に、田島直人コーチが水野さんの練習熱心からの疲労を察知し、1週間の休養とアリナミン服用を指示。東大戦当日はいわゆる「さぼりバネ」効果かゴム毬の如き走りで疾走。前東京五輪でのヘイズ並みにゴール後にバトンを空中に高々と投げ上げた光景が思い出されます。

ニコニコしながら「エヘヘ・・後藤君、実はそうなんだよ」の口調はもう聞けません。
ご冥福を心からお祈り致します。藤岡さん(S43)に続き悲しい限りです。

■ 池田 隆弘さん(S44卒)
 水野さんは、短距離の2年先輩で、力の差があったにもかかわらず、優しく接して頂きました。卒業後も、試合やOB会の会合で、学生の時と変わらずお話しさせて頂きました。
 私がリタイアして数年した時、暇だろうから倶楽部活動を手伝えと言われて、会計の仕事を引き受けました。 水野さんは、初回の沖縄合宿以降も琉大とお付き合いをされ、その後の沖縄合宿にも学生と一緒に参加され、交遊を深められました。倶楽部役員を離れられた後、沖縄合宿担当は、お前やれと青木元会長から言われて引き継ぎました。

こんなこともあり、2019年3月、S43,44有志で卒業50周年沖縄旅行を行い、4月に水野さんにご報告方々、久しぶりにお会いしました。その時、ちょっと足が悪そう(リウマチ?)でしたが、それ程体調が悪いようには思えず、また、と言って別れたのですが、残念です。
ご冥福をお祈りいたします。

■ 山本淳一さん(S44年卒)
 水野さんの訃報に接し驚いています。
水野さんと言えばすぐに思い出すのは、優しそうな表情の奥に込められた意思の強さと、真っ白なソックスです。とりわけ、真っ白なソックスを穿いた両足がきれいな回転でトラックの上を弾むように駆け抜けていく姿が今でも鮮明に目に浮かびます。ご冥福をお祈り申し上げます。

■ 徳島 厳さん
 水野さんの悲しい訃報のご連絡をいただき、驚いています。今年の年賀状には、「今年の目標は、体調と上手く付き合うこと!」と書かれていました。
   グランドでも、普段のたたずまいもスタイリッシュでした。メガネ越しのにこやかな目の奥に、ズボラだった自分には鋭さが感じられました。
 実はまだ若いころ、中学高校の同級生が水野さんの勤務先に関心があり紹介させていただき、お会いしたことがありますが、その彼が難病で亡くなった知らせが先日届いたばかりです。コロナ禍も加わりつらい気持ちがつのります。
 水野さんの霊魂が永遠の憩いを得られるよう祈ります。

■ 西さん
 水野さんとは3年程前に会食をさせて頂いたのが最後となります。その際も終了時にややお疲れのようでしたので、非常に心配しておりました。

 残念ながら、水野さんの華やかな現役時代は存じ上げないのですが、私の監督 兼 最若手理事 兼 70周年史委員時代は十数年に渡り、濃密なご指導を頂きました。監督退任パーティーにも年輩のOBとして唯一参加頂いており、優しいお言葉を頂いたことが懐かしく思い出されます。心からご冥福をお祈りします。

■ 遠藤恒夫さん
 水野さんの訃報に接し言葉も見つかりません。現役時代また卒業後も陸上部に大きな貢献をされ 一橋陸上部のあるべきアマチュアリズムの精神を一貫して貫かれ我々の大きな支えになって下さったと思います。
偉大だった水野さんのご冥福を心よりお祈りします。

■ 日渡さん(S62年卒)
 水野先輩には、平成元年までの「部史」の編纂作業の際や、自分が西先輩から監督を引き継いで間もない頃、に特にお世話になり、ご逝去の報を聞き、何とも寂しい思いです。心からご冥福をお祈り申し上げます。